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南北戦争中の北軍第5軍団(V Corps)は、ポトマック軍隷下の軍団である。 ==1862年== ジョージ・マクレランを司令官とするポトマック軍は、アメリカ連合国の首都リッチモンドの攻略を目指す半島方面作戦のために、第1~第5軍団を編成した。第5軍団の軍団長はナサニエル・バンクスであった。しかし、南軍ストーンウォール・ジャクソンのバレー方面作戦に対応するために、バンクスの軍団は短期間でポトマック軍から離れた。この軍団は後に第12軍団と改称された。 続いて、半島方面作戦中の1862年5月18日、リッチモンドに迫ったポトマック軍は軍団再編を実施し、第3軍団の第3師団(フィッツ・ジョン・ポーター准将)とジョージ・サイクス(George Sykes)准将の正規軍予備師団からなる暫定第5軍団が編成された。ポーターは軍団長となり、後任の師団長にはジョージ・モレル(George W. Morell)准将が就任した。1862年7月22日、「暫定」が取れ、陸軍省は第5軍団を正式の軍団と認めた。 半島方面作戦中に第5軍団が参加した戦闘は、ハノーバーコートハウスの戦いに加え、1862年6月25日から7月1日の七日間の戦いの内のメカニクスビルの戦い、ゲインズミルの戦い、グレンデイルの戦い及びマルバーンヒルの戦いがある。七日間の戦いの4つの戦闘での軍団の戦死者は995人、戦傷3,805人で、2,801人が行方不明または捕虜となり、損害合計は7,061人であったが、これはポトマック軍全体のおよそ半数に相当した。この損害の内、6,387人はゲインズミルで生じた。ゲインズミルでの北軍戦力は第5軍団と第6軍団の1個師団のみであり、これで南軍の北バージニア軍のほぼ全軍と戦った。7月14日に、ジョージ・マッコール(George A. McCall)のペンシルベニア予備師団が加わり、軍団の戦力は一時的に強化された。この師団には、後にその才能を発揮するジョン・F・レイノルズ(後にポトマック軍第1軍団長)やジョージ・ミード(後にポトマック軍司令官)がいた。 半島方面作戦は結局失敗に終わった。ペンシルベニア予備師団はアービン・マクドウェルのバージニア軍第3軍団に所属替えとなった。第5軍団はポトマック軍傘下に留まったものの、ジョン・ポープのバージニア軍支援のために、ポトマック軍第3軍団及び第9軍団とともに北バージニア方面に派遣された。 マクレランは第5軍団を特に賞賛していた。特にポーターとは親友であり、他の陸軍が見習うべきモデル軍団だと宣伝していた。軍団の参謀は全員が陸軍士官学校の出身者であり、政治家軍人や非職業軍人はいなかった。正規軍師団が軍団に含まれていたことも、第5軍団にプロフェッショナルな雰囲気を与え、訓練は他の部隊よりも厳しかった。加えて、正規軍予備砲兵部隊が軍団に付属された。 8月28日 - 8月30日の第二次ブルランの戦いでは北軍の左翼として戦った。ポーターはポープから南軍ストーンウォール・ジャクソンを攻撃するよう命令されたが、その場合別の南軍部隊(ジェイムズ・ロングストリート)から自身の側面を攻撃される可能性があり、その命令を実行に移さなかった。結局その恐れていたことが起こり、はるかに優勢な南軍の攻撃を受けた。隷下の6個旅団の内戦闘に参加したのは4個旅団であり、人員は6,500人と比較的少なかった。これに対して、戦死331人、負傷1,362人、行方不明456人の合計2,151人の損害を出している。第2師団のガバヌーア・ウォーレン旅団は2個連隊(第5および第10ニューヨーク連隊)で構成されていたが、第5ニューヨーク連隊500名のうちほぼ300名が被弾し、そのうち120名は瀕死の重傷を負った。ポーターはこの敗北のためにポープから軍団長を解任されたが、まもなくマクレランによって復職し、引き続き第5軍団の指揮をとった。 9月のアンティータムの戦い直前にアンドリュー・A・ハンフリーズの師団が追加され、3個師団編成となった。この師団は主としてペンシルベニアで集められた徴兵期間9ヶ月の兵で構成されていた。アンティータムでは両軍ともに多くの部隊を予備にし、順次投入する戦術を取った。第5軍団第1師団(モレル)は中央予備とされ、最後まで戦闘には投入されなかった。サイクスの第2師団は戦闘に投入されたがいくつかの部隊がアッパーフォードで小さな戦闘に加わった程度である。ハンフリーズの第3師団も予備として戦闘には参加しなかった。アンティータムの戦いで北軍は勝利し、南軍の北上を阻止することに成功した。しかし、ポトマック軍司令官のマクレランは、積極性に欠けるとしてリンカーン大統領に解任された。 マクレランの解任後に、ポーターは第二次ブルランの戦いの際の抗命に関して軍法会議にかけられた。ポーターの行動は非難を受けるようなものではなかったが、バージニア軍を指揮していたポープはスケープ・ゴートを必要としていた。ポーターは有罪となり、軍を免職された。第1師団長のジョージ・モレルも法廷でポーターを擁護する発言をしたため、連座して免職となった。さらに、その後長期にわたって、陸軍省は第5軍団の士官の昇進をなかなか認めなかった。 マクレランの後を継いで、アンブローズ・バーンサイド少将がポトマック軍の司令官となった。第5軍団の軍団長には、ジョセフ・フッカー少将が就任したが、直後にバーンサイドは第3軍団と第5軍団から構成される中央「大師団(Grand Division)」を組織し、フッカーは中央大師団の司令官に任命されたため、ダニエル・バターフィールド少将が第5軍団長を引き継いだ。バーンサイドはリンカーンにせかされ、冬期にも関わらずリッチモンド攻略を目指す作戦を立案した。1862年12月のフレデリックスバーグの戦いでは、チャールズ・グリフィン(Charles Griffin)、サイクス及びハンフリーズが各師団長を務めた。フレデリックスバーグで北軍は敗北し、第5軍団の損害は戦死206人、戦傷1,699人、行方不明300人の合計2,175人であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第5軍団 (北軍)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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